第3課 誇りと謙遜 安息日学校ガイド第2期 神との関係における成長
1888年の謎
先週は、本当に素晴らしい1週間でした。悩んでいた若者に、今、何故SDAかをお渡しする機会、チャンスになり、若者が熱心に読んでくれたことでした。
https://small-light-testimonies.blogspot.com/2015/08/sda_67.html
ちょうど30年前に書かれたこの本は
「それはすぐには表面化しないかもしれないが、 私自身この真理に触れたことによってすでに運命のわかれ道を歩み始めたと信じている。知った以上何も起こらない筈がない。聖霊を受けるか、拒むかのどちらかである。 時は迫っており、どこかで何かが起こらねばならない。「今、何故 SDA か」 の解答となる何かが…。」
1888年のメッセージ これは良くわからない。LGT 再臨の間に人は完全になるとの教えの先駆者などと言われていました。
確かに、1888年のメッセンジャーは
「どうして信仰によって義とされるという教理が、神の律法を軽視させると考える必要があるのでしょうか。…義とせられるというのは心に律法が確立される事です。…キリストは御自分の義を 与え、罪を取り除き、御自分の義をそこに据えられます。これはその人を全く変えてしまうのです」
とあり、何も起こっていない自分を見て そう思う・・
これは実は 高慢、感謝のなさ から来ていたことを知った時は本当に大発見でした。
「多くの人々はあちこちの書物を読んで、語り合う。しかし、私は馬鹿だから・・・聖書の箴言から始める」と言った方がいました。すると別の教会員が「そんなことは親から学んでくることよ」と言われたとか。
多くの人々は高慢なので、天にまで続く、長い階段を見て、高すぎる、LGT つまり完全にはならない、と考えていて一歩足を上げることをしない。頂上に到達しないと感謝できないと考えている。これが高慢。足を上げて一歩上がれたら感謝、2歩上がれたら、感謝。それは神さまがしてくださったことだから。
種は種で完全、芽は芽で完全、葉は葉で完全、花は花で完全、実は実で完全、この1888年のメッセージを知らなかったからでした。まさに「そんなこと」が大変重要だったのです。
落ち込む・・のは自己評価が高いから。自己評価が高いと現実の自分を見た時にがっかりする。
「主は我々の承諾なしに我々の罪を 取り去る事はなさいません。私はいつ でも主を選ぶか、自分の罪を持ち続 けるかの選択をしなければなりませ ん。…これから後神が罪だと示された ら、それが何であろうと捨てる事をため らうべきでしょうか。…主にこう言いま しょう。『主よ、私は今選びます。私はこ の罪とあなたとを引き換えます。わたし はあなたを選びます…。』一体どこの誰 が自分の罪を示されて失望する必要 があるのでしょうか。 さて兄弟がたの何人かはこの選びを さっそくなさっているかもしれません。 ここに来た時は何も感じていなかっ た、今まで気づかなかった何かを聖霊 が彼らに示されました。…するとそのよ うに示された事を感謝して、罪を捨て るかわりに…彼らは失望するのです。『 一体どうしよう。私の罪はこんなに多い のか』と…。 もし以前には考えてもみなかった罪を 示されたとすれば、それは主がこころ の深みを清めようとしておられる、とい うまでの事で、いつかそれはついに心 の底にまで達するのです。そして御自 分の御旨にそわない、不純で汚れたも のの最後の一つを取りだして我々に示 される時、我々が『そんなものよりキリ ストを持った方が良い』と言うならば 働きは終了し、生ける神の印がその人 の品性のうえに押されるのです(会衆: アーメン!)。 完全にイエス・キリストによって満たさ れているのと…いくつかの罪を知らさ れずに保ち続ける事と、どちらを望まれ ますか?もし我々が罪を持ち続けるな ら、どうして神の完全な品性である神 の印が我々に押されましょうか。それで 我々が夢にも思わなかったような深い 所まで主は掘り下げられるのです。我 々自身は自分の心さえ知らないのです から、…主にその働きを続けていただ きましょう。…もし主が我々に知らせる 事もしないで我々の罪を取り去るとし たら、それには何の意味があるでしょう か。我々は機械にすぎなくなってしまい ます。…我々は理知的な、神の器なの です。…理性を備えた道具なのです。 我々は自分の選びによって神のご用 に用いられるのです」(ATJ GCB 1893, p404,405)。
「使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。」ルカによる福音書
信仰を増すには、どうしたらよい?と思っていた私は、その答えにとても驚きました。
「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」
多くの人々は、絶望的な状態で、神さまに「造り変えられたいです」と祈るが、何か良くなると 他のせいにする、自分の手柄にする。9人のらい病人のように イエスさまに栄光を帰さない。これが高慢。
だから「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。にならない。
あたかも子供が 1人で育って来たかのように錯覚し、文句を言う。これが高慢。神さまがすでに良きことを始められてくださったのに感謝しない。
まだ変えられていない、足りない、まだ足りないと文句ばかり言う。
あまりに自分に当てはまってびっくり!しかし、これが1888年の謎を解く鍵だったのです。
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。 あなたは今、義に造り変えられる事を 望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。…世界で最も単純な事です」(ATJ RH 1896 11/10)。
高慢な人から謙遜な人になる、一生懸命、自分の中に義を見つけようと、さんざん悩んできました。
初代文集です。「われわれは、真理、すなわち救いの真理を、暗黒の中にいる飢えた人々に与えなければならない。わたしは、多くの人々が、神に、謙遜にしてくださるようにと祈っているのを見た。しかし、もし神が彼らの祈りに答えられるとするならば、恐るべきわざにより、義のうちに答えられるのである。へりくだることは、彼らの義務であった。」
すごいあかしに出会いました。クリスチャンの奉仕です
「わたしは、一人の男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして彼は、寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼は、その人を助けたいという謙遜な気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人の体をさすり続け、かなりたって後、その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分1人では行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人を抱きかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう一人を救いたいという彼の熱心の努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。若い信者がクリスチャン経験において、同様の結果を認められるように、説教ばかりでなく模範によって、絶えずこれらの教訓を力説しなければならない。」 クリスチャンの奉仕 覚醒 教会へのあかし 第4巻
わたしは馬鹿だから、だから足を一歩上げる、こんな者にありがたいと感謝に溢れる。救いを暗黒の中にいる飢えた人々に与える、自分と同じように凍死しかかっているその人を助けたい、これが謙遜であることを知った時は本当に大きな喜びでした。
この書いて 安息日学校ガイドを見た時、衝撃でした。なんと 題が「誇りと謙遜」だったからです。
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