和解と希望 2026年第1期 天と地を一つに 第9課
暗唱聖句
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」
ふ~んと流すところではなく え~「私たちが」 神さまの義となるの???と驚くところ。ではどうしてそうならないのだろう。ドキドキするような感動がないのか。それは簡単、パウロさんの言葉だと思っているから。
コロサイ人への最初の御言葉も同じ
「恵みと平安とがあなたがたにあるように」
「これは主の言葉です。そのことを思い出しましょう。ですから人の言葉以上の意味があります。主は中身のないあいさつをなさいません。それは、その言葉が言っている事柄を伴っています。神の言葉は創造します。創世記に、その創造する言葉の真の様相が表われています。
神は言われた 、「光あれ、すると光があった」。創造のどの場面でもそういうことが続きました。「彼が言われた、するとそれがあった」だから、ここで「恵みと平安があなたがたにあるように」と神が言われると、そうなります。「すべての人を救う神の恵みが現れた」テトス2:11)。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる |(ヨハネ 14:27)。 「『遠い者 にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう」と主は言われる |(イザヤ 57:19)。 神はすべての人に、たとえわたしやあなたがどんな者であっても、義と救いとを もたらして恵みと平安を下さいます。ガラテヤ人への手紙第1章のこの第3節 を読むときに、あいさつの文句の一種、つまりこれから本題に入る前のただの一時的なあいさつとして読んではなりません。そうではなく、あなたに個人的に、理解を越える神の平安という完全な祝福をもたらす創造の言葉として読むべきです。それは、わたしたちにとって、イエスがルカ 7:48-5で女に語った言葉、「あなたの罪はゆるされた」、「安心して行きなさい」と同じものです。平安はあなたに与えられるのですから、「神の平安があなたの心を支配する」ようにさせましょう。」EJワゴナー
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多くの人々は人間の言葉だと思っているから、聖書の御言葉の力が失われている。かつて聖書を引用する時には「主は言われる」と引用した。聖書にも「神の言葉、すべての人に開かれて」と書いてあった。しかし、今ではパウロさんがこう言っている。など人間的なレベルに聖書を落としているので、聖書の持っている
「だから、ここで「恵みと平安があなたがたにあるように」と神が言われると、そうなります。」
という聖書の御言葉の力を失っている。だから聖書研究に力が力がなくなっている。つまり聖書を開くときに、神さまにお会いしていない。ここが聖書やあかしの書の力を、喜びを失っている大きな原因。
「人々に教えを与える聖霊は、神の言葉の中に宿っている。新しい、尊い光がみことばの各ページから輝き出ている。みことばの中に真理があらわされている。どのことば、どの文章をとってみても、それが魂に呼びかける神の御声のように、輝かしく折りにかなったふさわしいものになるのである。
聖霊は、青年に語りかけることを愛しておられて、神のみことばの宝と美とを彼らが発見することを望んでおられるのである。大教師の語られた約束は、彼らの心をしっかり捕え、彼らの魂を霊的力によって活気づける。人々は豊かに実を結び、神に関する知識をされに深めていき、誘惑に対しても防壁を持つようになる。」 キリストの実物教訓 宝の倉の中の宝石
聖書・・・神さまの御声 この信仰を復興することも、信仰復興 つまりリバイバル
日曜日 悪い行いからの和解
時々、この問題について嫌がる人がいる。中には死ぬ前に神様にごめんなさいと言って天国にはいればいいという、とんでもない間違いもする人もいる。
しかし、人間にとって最も重要なのは、永遠に滅びることよりも重要な事は。
罪を犯し続けて幸せ??という絶対的な事実。神さまを傷つけて、人を傷つけながら生きていて、どうして幸せになるのだろう・・・よっぽどエゴになったら別ですが・・・
なので悪い行いからの和解は 福音 しかも、何十年かかって難しい、あるいは苦しい工程を潜り抜けたら。。。ではない。「すべてが一度に起こることもあります」
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が ”今”、”この場で”与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純な事です。」ATジョーンズ
月曜日 「もし」信仰に踏みとどまるなら
「われわれの義はキリストの内のみに見いだされる。」
ここを外れると、一気に不安が押し寄せる。迷路に入る。一生懸命自分に言い聞かせたり、自分の気に入る牧師さんに頼ったり、いろいろし始める。律法主義になってすごい努力をしようとしたり、聖霊の神さまの御声を意識的に無視したりするようになり、堕落へ一気に進む。結構たくさんいる。
水のバプテスマは聖書に書いてあるとても大切なこと。しかし、水のバプテスマを受けたら天には大きな喜びがある、とは聖書には書いていない。
水のバプテスマを受けたから大丈夫・・・とは聖書は語っていない。そうだとすると旧約聖書の多くの人々が救われないことになってしまう。もしかしたらサマリヤの女の町の人々も、ガダラの人々も・・・カナンの女の人も、百卒長も、ザアカイも、12年間長地血を患った方も、聖書には彼ら、彼女らが水のバプテスマを受けたとは書いていない。
羊と山羊のたとえでも、バプテスマは出てこない。水と霊によって生まれ変わらないと神の国を見ることができない。
ガイドには「通説に反して、パウロがまったく異なることを言っているのです。」と書いてあったので、そう思っている人々は多いかもしれない。しかし、そんなに悩むところではなく、目覚めた人々にとっては簡単にわかる所。
ここもパウロさんを一つの人に意見にしているが、神さまの御言葉である。
火曜日 神の永遠の計画
パウロさんが牢獄に捕らわれたことによって、多くの手紙が2000年にわたって残った。
なんという大きなことを成し遂げたのだろう、と思う。なので、不利な状況、自分には何もできない、と思っていることも気にすることではない。必要なのは、今、この場 がとても重要になってくる。
水曜日 明らかにされた神の秘められた計画
信者は今でも、「共に天の玉座に着(き)」「来るべき世の力」を味わえます
え~!???? と驚かない人はいるのだろうか??
天の玉座とは???
「神の子供とは、神のこ性質を受け継いでいる者である。わたしたちが神の家族の一員であることを証明するものは、この世の地位でも生まれでも国籍でも、あるいは宗教上の恩典でもなく、それは、愛——全人類を包容する愛——である。罪人でさえ、その心が神の聖霊に対して全く閉ざされているのでなければ、親切には応じてくる。彼らは、憎まれれば憎むが、愛されればまた愛することもできるのである、しかし、憎しみに対して愛で報いるのは、神の聖霊だけである。感謝の気持ちのない者や悪しき者に親切 を尽くし、何も当てにしないで善をなすこと——これが天の王家の紋章であり、いと高き者の子らがその高い身分を明らかにする確かなしるしである。」祝福の山
木曜日 福音の力
安息日学校ガイドを学ぶ時に、聖書やあかしの書を研究する時に、内容を理解しようとしたりすることよりも最も大切なことは、イエス様がおっしゃっておられる通り、
「わたしをあかし」していること つまり 神さまとイエス様に出会うこと。
「人間の言葉以上」の神様にお会いすること。そうでないと道徳の本になってしまう。
感動は聖霊の神さまの感動によって書かれている。感動は聖書の御言葉から直接来る。
「成長させてくださるのは神である。」
聖書を読んでいても、神さまの御力が欠けていることはありえる。人の言葉と呼んでいる限りは。
聖書の御言葉によって しかもその御言葉によってのみ、感動を与えくださる。神さまにお会いする、その美しい経験が書いてあります。
「 ワルド派の伝道者は、興味をもった人々に、福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは、注意深く書かれた聖書の一部を、用心深く取り出した。刑罰の執行を待ち構えている報復の神しか知らなかったところの、罪に苦しむ良心的な魂に希望を与えることは、彼の最大の喜びであった。くちびるを震わせ、目に涙を浮かべながら、そしてしばしばひざまずいて、彼は、罪人の唯一の希望を告げる尊い約束を彼の同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は、暗黒に閉ざされていた多くの心を照らし、黒雲を追い払い、そしてついには義の太陽が、その光にいやしの力をもって、心の中にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、繰り返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。相手は、それが聞き違いではないということを、確かめ ているかのようであった。特に次の聖句は、何度も繰り返すよう熱心に求められた。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(ヨハネ第一・1章7節)。「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章14、15節)。
多くの者が、ローマの主張に関して目を覚まされた。彼らは、罪人のための人間や天使のとりなしが、どんなに無益であるかを知った。彼らの心に真理の光がさし込んだ時、彼らは喜びをもって叫んだ。「キリストがわたしの祭司、彼の血がわたしの犠牲、そして彼の祭壇がわたしの告白室である」と。彼らは、イエスの功績に全くより頼んで次のみ言葉を繰り返した。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11章6節)。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。
嵐に悩む哀れな魂にとって、救い主の愛の保証は、実感できないほど大いなるものに思われた。大きな安心が与えられ、あふれるばかりの光が彼らの上に注がれたので、彼らは天に移されたかのように感じたほどであった。彼らの手は、キリストをしっかりと握り、彼らの足は永遠の岩の上に立っていた。死の恐怖はすべて消え去った。今や彼らにとって、救い主のみ名の栄光のためであるならば、牢獄であれ火刑であれ、あえて切望するところとなった。
こうして、人目を避けたところで、神のみ言葉が持ち出され、読まれたのであった。時には、ただ一人のために、そして時には、光と真理を渇望する小さい群れのために。このようにして徹夜することもよくあった。聴衆があまりにも驚き、感嘆するので、彼らが救いのおとずれを十分に理解するまで、憐れみの使者は朗読を中断せざるをえないこともまれではなかった。
また、しばしば、「神は、本当にわたしのささげ物を受け入れられるであろうか。神は、わたしに恵みをお与えになるであろうか。神は、わたしをお赦しになるであろうか」という言葉が発せられた。そしてその答えとして、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」というみ言葉が読み上げられた(マタイ11章28節)。
人々は信仰によって約束をしっかりととらえ、喜びをもって応答した。「もう長い巡礼の旅に出ることはない。もう苦労して宮詣りをしなくてもよいのだ。罪深く汚れたまま、わたしはイエスのもとに行っていいのだ。そして彼は、悔い改めた者の祈りを退けられない。『あなたの罪は赦された』。わたしの罪、わたしの罪でさえ、赦されるのだ!」
きよい喜びが心に満ち、賛美と感謝によってイエスのみ名があがめられるのであった。喜びに満たされたこれらの人々は、真の生ける「道」を発見したという自分たちの新しい経験を、できるだけ十分に他の人々に語り、光を伝えるために、家路を急いだ。真理を求めていた人々の心に直接語った聖書の言葉には、不思議で厳粛な力が伴っていた。それは神の声であった。そしてそれは、それを聞いた者たちの心を強く動かした。
真理の使者は、また旅に出てしまう。しかし、彼の謙遜な態度、誠実さ、そして真剣で熱意にあふれていたことなどが、たびたび話題となった。多くの場合聴衆は彼がどこから来てどこへ行くのかをたずねていなかった。彼らは、最初は驚きに圧倒され、そのあとでは感謝と喜びに圧倒されて、彼にたずねることなど考えもしなかったのである。彼らが、自分たちの家まで一緒に行くように勧めると、彼は、自分は群れの失われた羊をたずねなければならないと答えるのであった。もしかすると彼は天からのみ使いだったのではなかろ うか、と人々は不審がった。 各時代の大争闘 真理の使者たち
「今週の聖句」の中には、個人の和解の過程が詳しく説明されています。
「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」
万物、つまり全部、
地にあるもの、天にあるものを、ことごとく つまり全部
イエス様によってご自分の和解させてくださった 過去形
光あれ、と仰せになられると光がある、神さまが仰せになっておられる
「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。」
これは結構理解しやすい。
しかし、中には敵対?いやいや、わたしはずっとイエス様に従ってきましたよ、罪って何ですか?と思う日方もおられるが、結構それは
カナンの地に行きなさい、というと行かない、行ってはいけない、と言われると行く、見るなと言われると見たくなる、
日本でいう、あまのじゃく 「ご飯が良い? パンが良い」「どちらでもよい」と言われてパンをもっていくと「ご飯が良い」という。
少女パレアナ物語 ストウ夫人のように、鳥の料理をもっていくと 牛がいい、牛の料理をもっていくと羊の料理がいい、羊の料理をもっていくと鳥の料理が良い、
そこでパレアナは 3つ全部持って行ったと書かれている。
単なる、罪の性質であることがとても多い。次の瞬間 自分の罪で悩んでいるなど・・・
「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」
ここも「神様が」こう仰せになられる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」
「その御前に沈黙せよ」
しかも、今、それは今、過去でも、未来でもない。今
「あなたがたを」 コロサイ人ではない、「あなた」 今、読んでいるあなた、つまり私たちを
神さまが「和解させ」「聖なる、傷のない、責められることのない者」にされた。それは今。
「みまえに立たせて下さった」 過去形 つまり、これから、いつか、ではなく、今、すでに事実、そうさせてくださった
びっくり仰天、あまりに信じられない場合は 十字架を見る。ここのその保証がある。
だから「その死をとおして」と書いてある。
「ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。 わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。」
神さまが仰せになられた、人が、自分の考え 思い込みに移り行くことのないようにすべき
これは「天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたもの」つまり全部 例外がない。福音である。もちろんこれは神様がなされた。パウロさんは 奉仕しているだけ。
誰かのためではない。「あなたがたのために」神さまから与えられている。
「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」
何度繰り返しても大切なところ、この隠された奥義
え~わたしたちのうちにいます??? 栄光の望み?
いや~私の内にはおられないと思った場合はこの文章
信じても信じなくても、それはそう・・・衝撃の1888年のメッセージです
ここで人生が変わります。
信じることは受けること
「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたの である」(ヨ ハネ 1:12)。 ということは、彼の名を信じた者は彼を受けいれたということで す。彼の名を信じることは、彼が神の御子であることを信じることです。彼が神の御子であると信じることは、彼の名は「神われらと共にいます」なので、彼は肉、人の肉、すなわちわたしたちの肉の中に来られたと信じることです。 だから、彼の名を信じることは、彼がすべての人の内に、すべての肉の内に個人的に住まわれることを信じることを意味します。わたしたちが信じることによって、そうさせるのではありません。わたしたちが信じても信じなくても、 それはそうなのです。わたしたちはただすべての自然が啓示している事実を受けいれるだけです。
だからそのようにする結果として、つまりキリストを信じる結果として、わたしたちは キリストの信仰によって義とされます。なぜなら、わたしたちは自分の内にキリストを個人的 に宿らせて、彼自身の信仰を働かせていただくからです。天と地にあるすべての力は彼のみ手の内にあります。そしてそれを認めて、わたしたちはただ彼ご自身のやりかたで、彼ご自身の力をわたしたちの内に働かせていただくだけです。神は、「わたしたちのうちに働く力」によって、「思いをはるかに超えて」働かれます。
https://small-light-testimonies.blogspot.com/2022/10/2.html
「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」
「このキリスト」
つまり「あなたがた」の内にいますキリストイエスさまを宣べ伝えている。
聖霊の神さま、イエス様が私たちのうちに働いておられる。これによってのみ全き者として立つようになる
パウロさん テモテさんたちは「このために」聖霊の神さまのうちに力強く(弱くはない)働いておられる御力により、苦闘しながら努力している。
だれでもない、すべての人、つまり例外がない、特定の人ではない。
もちろんあなた、わたし・・・コロサイ人だけではない。
え~?と驚かない人がいるのだろうか。
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