第2課 神を知る 2026年第2期 神との関係における成長

神さまは聖なる御方(異なった御方) 愛の神さま 

わたしはかつて、教会のここがなっていない。教団のここがなっていない。職場のここがなっていない、と思っていました。要するに光を、イエスさまを見ていませんでした。だから暗かったのです。

ところが、祈り、証をするようになり、全くイエスさまを知らない方々が、イエスさまのあかしに夜も眠れないくらい感動して下さり、驚いてくださり、医療機器やパソコン、医療物資等々を教会、フィリピンの伝道地、職場、三育学院に次々と送られて来るのにびっくりし、また感動しました。

贈られた先は、自分が批判しているまさにその教会、職場にだったからです。わたしを徹底的に変えた祝福の山の言葉です 


「もしキリストが、あなたのうちに「栄光の望み」となるならば、あなたは、他の人々を見張り、彼らのあやまちを暴露しようというような性向を持たなくなるだろう。非難したりとがめたりしようとしないで、助け、祝福し、救うことがあなたの目的となるだろう。あやまちに陥っている人を取り扱うにあたって、あなたは、「もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」という命令に気をつけるだろう(ガラテヤ6:1)。あなたは、自分も幾度もあやまちにおちいり、ひとたび離れたら、正しい道を見いだすことが、どんなに困難であったかを思い出すだろう。あな たは、兄弟をいっそう暗い暗黒の中に押し入れることなく、憐れみに満ちた心をもって、彼にその危険を告げるであろう。」


それまで、神さまに心の清めとか、悔い改めとか、いわゆる霊的な事だけを祈っていました。物質的な事を祈るのは「御利益信仰」だと思って祈っていませんでした。仕事では失敗が続き、自分はダメだなあ、と思っていました。

ところが衝撃的な祝福の山の文章に出会います。

わたしたちの必要とするもの——物質的、霊的祝福を——日ごとに求めるように教えることによって、神は、わたしたちの益のために一つの目的を達成しようとしておられる。神は、わたしたちが神の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられる。それは、わたしたちをご自身との交わりに入れようと望まれるからである。キリストとのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者は命の泉でうるおされるのである。」祝福の山

わたしが神さまの絶えざるご配慮に依存している事を認めるためか・・・

そして、仕事の知識を、技術を、業を、知恵を、物質的な祝福も求めるようにようになりました。「日ごとに」 毎日。1週間分、1年分お願いします、はない。わたしが神さまに依存している事を認めるためだから。そのビフォーアフターがあまりにすごかった。そして、職場に数々の物質的な祝福も注がれるようになりました。

もし、毎日、物質的な祝福を祈っていなかったら、祝福が与えられれば与えられるほど、サタンのように自分の知恵、自分の知識、自分とどんどん傲慢になっていく。しかし、祈っていれば、祝福が与えられれば与えられるほど、神さまに栄光を帰していく。

そして、何より、物質的な祝福を通してさえ、神さまとの交わり、イエスさまとの交わりになる。神さまを知る。

ただ祈り、そして与えられるのは「わたしに」ではなく、「わたしたちに」

祝福は教会や伝道地、三育学院、東京衛生アドベンチスト病院に与えられた。私に来るのではない。ただし、流れになることによって受ける祝福が大きい。


「しかし、「心の清い人たちは、さいわいである」とのイエスの言葉は、もっと深い意味をもっている。単に世が純潔と考える意味での純潔——肉体的なものにとらわれず、情欲に汚れていない——を言うのでなく、心のかくれた目的や動機において真実であり、誇りや利己主義から解放され、謙そんで、無我で、幼な子のような者であることを意味する。」祝福の山


ある時東京衛生アドベンチスト病院の倉庫で缶詰を運んでいた時の事です。それまで、私は自分で信仰をつかんできた、いえ、信仰をもぎ取ってきたと。。。思っていました

突然です。そうではない、誰かが祈り、誰かが讃美歌を歌い、誰かが説教し、誰かが印刷物を渡し、誰かが言葉をかけてくれたから。。。という事がわかり、涙が止めどなく流れて止まりませんでした。

悔い改めとは自分からイエス様に向き直ること・・・


証の書言葉、自分は対象外・・・伝道は嫌いだし、苦手だし、そもそも自分なんて救われない、死んでしまいたい・・・ 自分の罪と必死に戦いながら、自分のような、罪と欲にまみれた黒い心の自分が、どうして罪のない清らかな天使の方々と手を取り合うことなどできようか、と苦しみながら眠ってしまった時に、夢を見ました。

天国に入っている夢でした。しっかりと白い衣まで着せていただいていました。しかし、心は前のまま変わっていませんでした。天使の方々に見つからないように小さな木立の中に隠れて、天使の方々が来たら逃げようとしている自分がいました。

突然、大歓声が上がるとたくさんの天使たちに囲まれ、手どころか、皆に抱きしめられて、もみくちゃにされて、「よくやった。よくやった」と大歓声をかけられたのです。そこで目を覚ましました。あふれるばかりの涙を流しながら、「そこには罪がない」と叫んだのです。

 天国には罪がない。最後に来た労働者を下げずむパリサイ人はいない、汚いラザロを見捨てる人はいない、傷ついている人を通り過ぎるような冷たい律法学者や祭司はいない、香油を割ったマリヤさんを「それは罪の女なのだから」と軽蔑する人は、そこにはいない、汚い、豚や家畜のでいっぱいの、ボロボロの放蕩息子が帰ってきたときに、「このあなたの子が」と軽蔑する人はいない、のです。

「天国に罪がない」、すごい所だと思いました。

こんなの無理!と思わないのでしょうか。その通り、無理です。

なので、毎日、イエス様が、聖霊の神様が心の中に住んでくださるように祈る必要があります。その時に、我ならぬ我、自分でも思ってもみない行動をするようになる、

それを自分に栄光を帰さなければ、もっともっと与えられる・・・

神さまの御前に出た、全財産を失い、体中かゆみだかけのヨブさん、ダニエルさん、弟子のヨハネさんたちでさえ、燃える柴の前にいたモーセさん、たちは、皆、聖なる神さまの御前にひれ伏している。しかし、サタンはそれがわからない


どうしてだろう。

「心の清い人は、さいさいである。彼らは神を見るであろう。」

これか・・・

「わたしたちは報いなど考えずただ奉仕のことを思うべきである。しかし、この精神をもって行う親切は、必ずその報いを受ける。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:4)。神ご自身が、ほかのすべての報いを包含する大きな報いであるのは事実だが、魂はその品性が神と同化してはじめて、神を受けてその交わりを楽しむことができるのである。同類のみが、同類を理解することができる。神がご自身をわたしたちにお与えになるのは、人類への奉仕のために自分を神にささげる時である。」祝福の山


「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」マタイによる福音書6章


愚直にやっていると、神さまは右の手でされておられることを左手に知らされない御方であることがわかってきます。神さまって本当にすごい!

聖書にはなんと!喜びに満ちているのだろう

伝道していない時には、神さまはどうしてお働きになられないのだろう。聖霊の神様はどうして降下されないのだろう、と思っていました。

ところが、伝道し始めると、神さまはなんとお働きになられておられるのだろう。人は何と頑固に聖霊の神様に逆らい続けているのだろう、とみえるようになった。


「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」マルコによる福音書

今の人はこれがイスラエルの歴史であることを、旧約聖書のユダヤ人の歴史であることを知っている。ここに登場する人々でさせ、語られているその時に、神さまの愛子を殺そうとした。実際に殺してしまった。

人間の反応は「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。

しかし、神さまはこのあと、この憎しみに満ちた人々に 使徒の方々をお遣わしになられる。人はたった一言、言葉を言われただけで、傷ついたり、復讐したり、刑罰、滅び、地獄を宣告したりする。しかし、神さまは・・・なんという御方なのだろう。

人々はそれに感動するところだった。しかし、彼らは感動するところで怒ってしまった。


「イエスの心にとっては、愛する弟子たちの心配や失望や不信にさからって、道を進まれることは苦しいことであった。エルサレムで弟子たちを待ち受けている苦悩と絶望に向かって彼らを連れて行くことはつらいことであった、そこでサタンは、近くにいて、人の子イエスに誘惑をもって迫ったなぜイエスは死 ぬにきまっているエルサレムにいま行かれるのか。イエスの周囲には生命のパンに飢えている魂がいる。どちらを向いても悩める者たちがイエスのいやしのことばを待っている。キリストの恵みの福音をもってなされる働きは始まったばかりであった。しかもイエスは壮年の盛りで力に満ちておられた。なぜその恵みのことばといやしの力のみ手をもって世界の広い野へ出て行かれないのか。なぜ暗黒のうちにある不幸な幾百万の人々に光と幸福を与える喜びをご自分のものとされないのか。なぜその収穫を、信仰が弱く、さとりがにぶく、行動の遅い泊子たちの手に残されるのか。なぜいま死に直面し、始めたばかりの働きを残されるのか。荒野でキリストに立ち向かった敵は、いま激しく巧妙な誘惑をもってイエスを攻撃した。もしイエスが一瞬でも屈服されたら、そしてもしご自分を救うためにほんの一点でも予定を変更されたら、サタンの力は勝利し、世は滅びたのである。 


しかしイエスは、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」た(ルカ9:51)。イエスの生涯のただ一つの法則は、天父のみこころであった。イエスは、少年時代に宮参りをされたとき、マリヤに、「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言われた(ルカ2:49)。カナで、マリヤがイエスに奇跡の力をあらわしてくださいと希望した時、イエスの答は、「わたしの時は、まだきていません」であった(ヨハネ2:4)。イエスの兄弟たちがイエスに祭りに行くようにすすめた時にも、彼は同じことばで答えられた。しかし神の大いなるご計画のうちには、イエスが人類の罪のためにご自身をささげられる時が定められていて、その時刻がまさに到来しようとしていた。イエスは、弱ったり、動揺したしようとなさらない。イエスの足はエルサレムに向けられている。そこでは敵どもが彼の生命をとろうと長い間たくらんでいた。いまこそイエスは、ご自分の生命を激ようとされるのである。イエスは、迫害、拒否、拒絶、罪の宣告、死に対して顔をしっかりと向けて進んで行かれた。 」各時代の希望 第53章 ガリラヤからの最後の旅

イエスさまは、私の救いのためにどんな1点でも予定を変更なさらない。

人はなんと嫌がったり、それたり、文句を言ったりすることだろう。


「エルサレムの娘たちよ、 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、 あなたがたに誓い、お願いする、 愛のおのずから起るときまでは、 ことさらに呼び起すことも、 さますこともしないように。」雅歌

神さまは待たれる。なんという驚くべき愛、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はとこしえに絶えることがない。

驚くべきことです。

「罪の欺瞞は絶頂に達していた。人々の魂を堕落させるあらゆる手段が実行されていた。神のみ子は、この世をながめて、苦難と不幸とをごらんになった。キリストは、人間がサタンの残酷な行為の犠牲となっているのを、憐れみをもってごらんになった。堕落し、殺され、失われつつある人々を、キリストは同情の思いをもってごらんになった。彼らのえらんだ支配者は彼らを捕虜としてくびきにつないだ。あざむかれ、途方に暮れながら、彼らは暗い行列をつくって永遠の滅亡——生きる望みのない死、朝のおとずれることのない夜へ向かって歩きつづけていた。悪霊が人間と一体となっていた。神の住居としてつくられた人間の体は悪霊の住居となっていた。人間の感覚、神経、欲望、器官は、超自然の力によって、最もいやしい情欲をほしいままにするために働かされた。悪霊の印そのものが人間の顔におされた。人間の顔は、その身を占領している大勢の悪霊の表情を反映した。世のあがない主がごらんになったのはこのような光景だった。限りなく純潔なお方の目に、それは何という光景だったことだろう。 


罪は科学となり、悪徳は宗教の一部分として神聖なものにされていた。反逆は人間の心の奥深くくいこみ、人は天に向かってはげしい敵意をいだいていた。人間は神を離れては向上できないことが宇宙の前に実例として示された。世界をおつくりになったお方によって、生命と力の新しい要素がさずけられねばならなかった。 


他世界は、主が立ちあがって地の住民を一掃されるのを見ようと、強い関心をもって見守っていた。もし神がそうなさったら、サタンは、天使たちの忠誠を自分に向けさせようとする計画を実行しようと待ちかまえていた。彼は神の統治の原則ではゆるすという ことが絶対にないと断言していた。もしこの世界が滅ぼされたら、彼は自分の非難が事実であったと主張しただろう。彼は神を非難し、反逆を他世界にまでひろげようと待ちかまえていた。ところが神は、この世を滅ぼすどころか、かえってこの世を救うためにみ子をつかわされた。神にそむいた世界のいたるところに堕落と反抗がみられたが、その回復の道が備えられた。サタンがまさに勝利しようとするかのようにみえたその危機に、神のみ子が神の恵みという大使の印を帯びてこられた。どの時代にも、どの時間にも、神の愛は堕落した人類に向かってそそがれていた。人間の強情さにもかかわらず、たえず憐れみのしるしが示されていた。こうして時が満ちた時に、神は、救いの計画が達成されるまでさまたげられることも取り去られることもないいやしの恵みを、あふれるばかりに世にそそぐことによって栄えを受けられた。」各時代の希望

地球の冷たい人々だけではない。天の愛に溢れた人々でさえ、「主が立ちあがって地の住民を一掃されるのを見ようと、強い関心をもって見守っていた。」

ここに神差の御子がおいでになられる、それはなんという光景だったことだろう。

誰が、絶望する必要がある人がいるのだろう。


「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」ゼカリヤ書9章9節


「「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。」ルカによる福音書

「イエスは、エルサレムに乗り入れるために、ろばと子ろばを引いてくるように、2人の弟子をおつかわしになった。救い主は、誕生の時には、見知らぬ人たちの好意にたよられた。イエスがおやすみになった馬ぶねは借りた休み場所であった。「丘の上の千々の家畜」はイエスのものであるのに(詩篇50:10)、いま彼は、主としてエルサレムに入城するためにお乗りになる家畜を手に入れるのに見知らぬ人の親切にたよられる。しかしこの用事のために弟子たちにお与えになったこまかい指示の中にさえ、ふたたびイエス の神性があらわされる。」

各時代の希望

ロバに子に乗られるイエスさま、弟子たちの足をお洗いなられるイエスさま、

偉大などんな御力も持っておられる御方がお用いになったのは愛だけ、

ミサイルや爆弾、きらびやかな演出、多額の報奨金、などではない。

呪う者を祝福し、迫害する者のために祈られる。

すべてを持っておられる御方が、見知らぬ人の親切にたよられる、何という驚くべき光景だろう。

その清らかなお姿だけ・・・なんという御方なのだろう








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