キリストにあって満たされる 2026年第一期 天と地を一つに 第10課
「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」
奥義なるイエス様を知っていますか?
イエス様のうちにある、知恵と知識都の宝を持っていますか?
神の知恵たるイエス様、あのカルバリーの十字架にある神さまの驚くべき知恵を知っていますか。神さまはどんなこともおできになられる。光あれ、と仰せになられたら光がある。その神さまの英知に溢れたカルバリーの十字架の知恵を御存じですか。
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、」ていますか。
「そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」
それを あふれるばかりに 感謝する こうすれば、福音を伝えずにはいられない。
ここからずれて
「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい」
「そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」
現在形 今、そうなっている、と神さまが仰せになられている。
「彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」
過去形、すでにそうなった。
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
あなたはすでにそうなった。過去形
「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。」
あなたはすでにそうなった。過去形
神さまが御命じになられている。あふれるばかりに感謝しなさい。
ここがわたしたちが大いに、溢れるばかりにするところ、
これをあふれるばかりに感謝していたら、大きな喜びをいただき、人に伝えずにはいられなくなる。
ここからずれるのが、こちらの方向
暗唱聖句
「 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。」コロサイ人への手紙1章
その前、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」
え?規定=十戒??みたいに見えるけど。じゃあ、偶像礼拝してもいいの? 神さまの御名をみだりに唱えていいの?他を神としてもいいの? 殺してもいいの?? みたいになる。
そもそもイエス様の一点 一画もの御言葉とも違ってしまう。
「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。」
なので人間の規定。十戒ではない。
この二つの違いは大きい
「二つの契約の違いを次のように簡潔に述べることができるでしょう。シナイ山からの契約においては、わたしたちは自分だけで律法を行わなければなりません。一方上よりの契約においては、わたしたちはキリストにある律法を持ちます。第一の場合では、わたしたちにとってそれは死となります。なぜなら律法は両刃の剣より鋭く、わたしたちには、恐ろしい結果を招かずにそれを取り扱うことができないからです。しかし第二の場合では、わたしたちは仲保者の御手にある」律法を持つのです。一方の場合では、わたしたちは何をすることができるかであり、他方の場合では神の御霊には何をすることができるか、です。ガラテヤ人への手紙の中には、律法を守るべきかどうかというような疑問はまったくないということを頭にとどめておきましょう。唯一の質問は、どのようにしてそれがなされるか、です。わたしたち自身の行いによるべきか、そうであるなら報いは恵みではなく義理でしょうか。それともわたしたちに神の喜ばれることをしようという思いを起こし、それを行うために、神が働かれることなのでしょうか」 EJワゴナー よきおとずれ ガラテヤ4章 より
https://small-light-testimonies.blogspot.com/2021/05/blog-post_9.html
なので、何回も 何回も キリストにあって つまりイエスさまにあって、とパウロさんは何度も何度も書いてある。
「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」
「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」
自分の力だけで、行おうとすると 必然的に
「ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」となる。
「聖書の宗教は肉体の苦行にあるのではないという原則を、イエスはこんこんとお教えになった。」各時代の希望
聖書を読んでいても こうなる人々はいる
「サドカイ人はイエスの教えを拒否した。イエスは1つの目的に動かされておられたが、サドカイ人はそれがこのようにあらわれることをみとめようとしなかった。神と来世についてのイエスの教えは、彼らの理論と矛盾した。彼らは神が人間よりもすぐれた唯一の存在であることは信じたが、支配的な摂理と神の先見性は人間から道徳的自由意志を奪い、人間を奴隷の地位に堕落させるものであると論じた。神は人間をおつくりになって、これを上からの力に左右されない独立した者とされたというのが、彼らの信念であった。人間は自由に自分自身の生活を支配し、世の出来事を形成し、自分の運命を自分自身の手ににぎっているのだと、彼らは主張した。彼らは神のみたまが人間の努力すなわち生来の手段を通して働くことを否定した。それでも彼らは、人間は自分の生まれつきの能力を正しく用いることによって、高められ、啓発される、またきびしくはげしい苦行によって生活をきよめることができると主張した。」各時代の希望 論争
「この兄は、キリストの時代の悔い改めないユダヤ人を代表していた。そして、また、いわゆる取税人や罪人を軽べつするところの各時代のパリサイ人をもさしている。彼らは、自分たちが、ひどい罪におちいっていないと言って、自分を義とする精神に満ちている。キリストは、これらのとがめ立てする人々に対して、彼らの側に立ってお語りになった。たとえの中の兄 のように、彼らは、神からの特別の特権にあずかっていた。彼らは、神の家の子であるととなえてはいたが、実は雇い人の精神をもっていた。彼らは、愛の動機からではなくて、報酬を望んで働いていた。神は、彼らの目には、厳しい主人と思えた。彼らは、キリストが取税人や罪人を招いて、恵みの賜物を惜しみなくお与えになるのを見た。ところがこれは、ラビたちが、難行苦行によってのみ与えられることを願っていた賜物であったので、彼らはここでつまずいた。放蕩息子が帰って来たということで、天の父は喜びに満ちておられるのに、彼らの心には、ただしっとの思いが起こるばかりであった。」各時代の希望 本心に立ちかえった青年
両方とも あふれるばかりに感謝していない。自分、自分、自分
イエス様に感謝していない。
わお!!これか・・・
URLは
先日の、ユナイテッドプレイヤーのメンバーの家でのあかしです
https://a-small-testimony-series.blogspot.com/2026/02/blog-post_26.html
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