安息日学校ガイド  2025年第3期 第6課 葦の海を渡って

 「弟子たちは、その日キリストのふしぎなみわざを目に見ていた。天が地におりてきたように思えた。この輝かしく、とうとい日の思い出によって、彼らは信仰と望みに満たされるべきだった。そうしたことについて、心に満ちあふれるままに語り合っていたら、彼らは試みにおちいるようなことはなかったのである。だが彼らは失望に心を奪われていた。「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」と言われたキリストのみことばに注意が払われなかつた(ヨハネ6:12)。それは弟子たちにとって大きな 祝福の時であったのに、彼らはそのことをまったく忘れていた。彼らは波の立ちさわぐ湖のまん中にいた。彼らの思いもまた荒れて、理性を欠いていたので、主は、彼らの魂を苦しめ、彼らの心を占領するような何かほかのものをお与えになった。人間が自分で重荷と苦労とをつくり出す時に、神はたびたびそういうことをなさる。弟子たちは自分で苦労をつくるに及ばなかった。すでに危険が急速に迫っていた。」各時代の希望 第40章 湖上の一夜


心に満ちあふれるままに語り合っていたら、彼らは試みにおちいるようなことはなかったのである。 あかししていくことが大切

多くの若い方々がそれそれのあかしをしていた。

人はそれぞれ毎日 未知の新しい1ページを送る。アブラハムさんのように知らない土地へ出ていく。イスラエル人も400年経っているので未知の土地へ、行き先を知らないで出ていく。

「ここに教えられている驚くべき教訓は、いつの時代にもあてはまるのである。クリスチャンの生涯は、しばしば危険にさらされ、義務を果たすことか困難に思われる。われわれは、前方には滅び、後方には束縛や死が迫っているように考える。それにもかかわらず神のみ声は明らかに「前進せよ」と語っている。われわれの目が、暗黒を貫いて見ることができなくても、また、冷たい波を足もとに感じても、われわれはこの命令に従わなくてはならない。われわれの前進を妨げる障害物は、ためらったり疑ったりしていては取り去られることはない。すべての不安のかげが消えうせ、失敗や敗北の危険が全くなくなるまで服従をのばす者は、絶対に服従することはない。「障害物が取り除かれて、われわれの道が明らかに見えるようになるまで待とう」と不信はささやく。しかし、信仰はすべてを望み、すべてを信じておおしく前進することを勧める。 

同じ時間、同じ場所、同じ出来事に出会いながら、照明の光になるか、暗黒と絶望をもたらすかのどちらかになる。

エジプト人にとって、暗黒の壁であった雲は、ヘブル人には全陣営を照らし、彼らの行く手に光を投げかける大いなる照明の光であった。そのように摂理のうちになされることは、信じない者には暗黒と絶望をもたらすが、信じ、よりたのむ魂には輝く光明であり、平和である。神がお導きになる道は、荒野や海を通っているかも知れないが、安全な道なのである。」人類のあけぼの 第25章 エジプト脱出


いろいろなことが起こる時、同じ場所 同じ時間、同じ出来事に出会いながら

「神が導いておられるなら、どうしてこんなことがわたしたちに起こるのだろう」と思うか、

「神が導いておられるからこそ、こうしたことが彼らの上に起こるのである。」と見えるかの違いを大きい。

「こうした生活を送り、こうした感化を及ぼすためには一歩一歩、努力と自己犠牲と鍛錬がいる。このことを理解しないために多くの者がクリスチャン生活にすぐ失望してしまう。真心から神の働きに献身する多くの人が、従来に見ないほど妨害をうけ、試練や困難に襲われて驚き、失望する。主の働きにふさわしい者となるために彼らはキリストのような品性を求めて祈っているが、自分の持っている悪い性質しか引き出せないような事情におかれている。そして、持っているとは思わなかった短所があらわれ、昔のイスラエルびとのように「神が導いておられるなら、どうしてこんなことがわたしたちに起こるのだろう」と尋ねる。

 神が導いておられるからこそ、こうしたことが彼らの上に起こるのである。試練や困難は神がお選びになった鍛錬の手段であって、神が定められた成功の条件である。人の心の中をごらんになる神は、人間が自分自身を知る以上に人間の性質を知っておられる。正しく指導すれば神の働きを進展さすのに用いることができる能力や感受性を持っている人々がいることを知っておられ、摂理によってこうした人をいろいろ異なる地位や各種の境遇に導かれるのであるが、それはその人自身が知らなかった自己の欠陥を発見するためである。神はこうした欠陥を改める機会を与え、神の働きに適する者となる機会を与えられる。そして、きよめられるためにしばしば火のような試練が彼らを襲うことを許されるのである。 ~ミニストリーオブヒーリング 日常生活の助け~

水が分かれる奇跡は一生のうち、1,2回しか見れないかもしれない。

しかし、罪からの救いは 誰でも毎日経験できる。そしてこの奇跡は紅海の海が分かれるようにもっと大きい奇跡。

誘惑は罪ではない。クリスチャンの中には、誘惑されるとそれが罪であると悩む人がいる。

しかし、誘惑は罪ではない。同じ罪の誘惑でも失望する人と勝利する喜びを神様に感謝する人いる。

「人間が誤った行動をとるように強く影響される時、それをする事が可能であるのを知りながらも神の力にしっかりとつかまりながら、信仰によってそうする事を拒む時、誘惑はしりぞける事ができる。これがキリストの経てこられた経験である」(ユース・インストラクター誌 1899 7/20)。

同じように、新しい罪が示された時、失望する人と感謝する人がいる。同じクリスチャン人生なら感謝して渡っていった方が良い。

罪に自分ひとりで戦わない。「私はこの罪とあなたとを引き換えます。」ということが大切

「主は我々の承諾なしに我々の罪を取り去る事はなさいません。私はいつでも主を選ぶか、自分の罪を持ち続けるかの選択をしなければなりません。…これから後神が罪だと示されたら、それが何であろうと捨てる事をため らうべきでしょうか。…主にこう言いましょう。『主よ、私は今選びます。私はこの罪とあなたとを引き換えます。わたしはあなたを選びます…。』一体どこの誰が自分の罪を示されて失望する必要があるのでしょうか。 さて兄弟がたの何人かはこの選びをさっそくなさっているかもしれません。 ここに来た時は何も感じていなかっ た、今まで気づかなかった何かを聖霊が彼らに示されました。…するとそのように示された事を感謝して、罪を捨てるかわりに…彼らは失望するのです。『 一体どうしよう。私の罪はこんなに多いのか』と…。 もし以前には考えてもみなかった罪を示されたとすれば、それは主がこころの深みを清めようとしておられる、というまでの事で、いつかそれはついに心の底にまで達するのです。そして御自分の御旨にそわない、不純で汚れたものの最後の一つを取りだして我々に示される時、我々が『そんなものよりキリストを持った方が良い』と言うならば 働きは終了し、生ける神の印がその人の品性のうえに押されるのです(会衆: アーメン!)。 完全にイエス・キリストによって満たされているのと…いくつかの罪を知らされずに保ち続ける事と、どちらを望まれますか?もし我々が罪を持ち続けるなら、どうして神の完全な品性である神の印が我々に押されましょうか。それで我々が夢にも思わなかったような深い 所まで主は掘り下げられるのです。我々自身は自分の心さえ知らないのです から、…主にその働きを続けていただきましょう。…もし主が我々に知らせる事もしないで我々の罪を取り去るとし たら、それには何の意味があるでしょうか。我々は機械にすぎなくなってしまいます。…我々は理知的な、神の器なのです。…理性を備えた道具なのです。 我々は自分の選びによって神のご用に用いられるのです」(ATJ GCB 1893, p404,405)。

「あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。」

祝福だけ求める、自分で神さまを求めないのは間違い、紅海まで飛び込んでしまう

自分たちを導いてくださったのは モーセではなく、神さまに問い続けることが大切。

「かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。


自分たちが恐れているから、神さまは「恐れてはならない」 

かたく立っていないから かたく立ってと仰せになられる

神さまは恐れていない人に、恐れてはならないとは仰せになられない

「モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。」出エジプト記第14章13-14節


大体こういう時には切羽詰まっている。神様のお恵みを思い出せてください。神様のお約束を思い出せてくださいと祈る。


「また、過去の苦い日々についてのつぶやきも聞かれなかった。試練や悲しみも、もはや「身にふ りかかって来る」不幸ではなかった。彼の全生涯の旅路を通じて、ヤコブとともにおられた神の恵みといつくしみだけが記憶によみがえってきた。」人類のあけぼの 第21章 ヨセフと兄弟たち

記録することの重要性、

「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いてイエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。」キリストへの道 弟子としての証拠

パベルゴイア牧師

多くの人々は蛇口をひねれば水が出ると信じている。しかし、神さまが許しをお与えになられると信じない。人々は蛇口ほどに神様を信じていない

サタンは人々が神に赦しと恵みを求めるならば、それが与えられることを知っている。であるから、サタンは彼らの前にその罪を示して、失望させようとする。彼は神に従おうとする者に対して、常に苦情を言う機会をねらっている。彼は、彼らの最善で最も満足すべき奉仕でさえも、腐敗したもののように見せようとする。彼は、最も狡猾で最も残酷な様々の策略によって、彼らを罪に定めようと努めるのである。 国と指導者 第47章 大祭司ヨシュアと天使

「イエスは、一人一人の魂の事情をご存じである。自分は罪深い者だ、とても罪深いとあなたは言うだろう。あるいはそうかも知れない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、イエスが必要なのである。主は泣いて悔い改める者を決してしりぞけられない。主は明らかに示すことがおできになることを全部だれにでもお告げになるとは限らない。主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。主はゆるしと回復とを求めてみもとに来るすべての者を心よくゆるしてくださる。」各時代の希望 各時代の希望 シモンの家での食事


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