宝の倉の中の宝石
「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」ヨハネによる福音書1章1-2節
どうして、「 初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。このキリストは初めに神と共にあった。」ではないのか。
神さまの御言葉と人の言葉の違い、それは創造者であられるか、被造物であるか。
わたしが百万回、「光あれ」と言っても、光は現れない。
しかし、「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」
「「そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」創世記15章5-6節
神さまが「あなたの子孫はあのようになる」と仰せになったら、その通りになる。実際に今、その通りになっている。しかし、この時、アブラハムさんには子供がいなかった。しかし、神さまが仰せになったらその通りになると信じた、主はこれを彼の義と認められた。
神さまが、あなたの罪は赦されたと仰せになった、その通りになると信じた、主はこれを彼の義と認められる。
「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」ヨハネによる福音書6章63節
「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 ヨハネによる福音書3章3-8節
「論争や議論によっては、魂に光が与えられない。われわれは仰いで見て生きなければならない。ニコデモは教訓を受け入れてそれを持ち帰った。彼は理論について議論するためではなく、魂にいのちを受けるために、新しい方法で聖書を調べた。聖霊の導きに身を委ねた時、彼は天の王国を見はじめた。」各時代の希望第17章ニコデモ
この当時にあったのは旧約聖書のみ、しかしニコデモさんは気づいた。この聖書の御言葉こそ、聖霊であり、命であると。
「人びとに教えを与える聖霊は、神の御言葉の中に宿っている。新しい、尊い光が御言葉の各ページから出ている。御言葉の中に真理があらわされている。どのことば、どの文章をとってみても、それが魂に呼びかける神の御声のように、輝かしく折りにかなったふさわしいものになるのである。」 キリストの実物教訓 第11章 宝の倉の中の宝石
「家長たちに示されたキリスト、犠牲制度に象徴され、律法に描かれ、預言者によって啓示されたキリストが、旧約聖書の宝である。キリストの生涯、死、復活、それに、聖霊によってあらわされたキリストが、新約聖書の宝である。父の栄光の輝きであられるわたしたちの救い主は、旧約であると同時に新約でもあられる。」キリストの実物教訓 第11章 宝の倉の中の宝石
これが聖書なのだと。聖書に対する信仰が復興する。これを信仰復興 リバイバルと言う。
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