悔い改めとゆるし 神との関係における成長 第10課 2026年6月6日 

 「救われた民は天の律法のほかには、どんな律法も守ることはなく、すべての人が幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとい、自然はすべて、そのすばらしい美の中に神を賛美し、礼拝するのである。世界は天の光をあび、月の光は日のようになり、日の光は今の7倍の光を放つにいたる。喜びのうちに年は進み、その光景を見て、あけの明星はともに歌い、神の子は喜びの声をあげるのである。そして、神とキリストが声を合わせて、「もはや罪もなく、死もない」と宣言されるのである。」 ミニストリーオブヒーリング 第43章さらに高度な体験


「感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとい」

今日の安息日学校のテーマの一つ はイエス様の義の衣

礼服の譬にある通り、とても重要なテーマ、なのでこの言葉を見つけた時は「宝物」になりました。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 マタイによる福音書

ここに出てくる人々、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』 この人々はイエス様の義の衣を着ていない。

自分の義、自分の義の衣を着ている。なので、~してではありませんか、という。

イエス様の義の衣を着ている人々なら、すべてイエス様のお恵みです、と感謝と讃美する。

羊と山羊の譬も同じ。右にいる人々はイエス様のお恵みによってしているために、「いつしたのですか」と聞く。


「悔い改めとは、自己からキリストへと向きなおることである。」祝福の山

なので、悔い改めてから つまり「よし 悔い改めた イエス様の所へ行こう」というのは間違い。


「このような悔い改めは、自分の力ではとてもできるものではありません。これは天にお上りになって、人類に聖霊の賜物を与えたもうキリストによるほかないのです。 


ところがここで考え違いをして、せっかく、キリストが与えようとしておいでになる助けを受けない人が多いのです。つまり彼らは、まず悔い改めなければキリストに近づけない、悔い改めは罪のゆるしを受ける準備であると思っています。もちろん悔いくずおれた心だけが救い主の必要を感じるのですから、悔い改めが罪のゆるしに先だつのは当然です。それでは、罪人は悔い改めるまではイエスのもとに行かれないのでしょうか。悔い改めが罪人と救い主との間の障害物となってよいものでしょうか。 


聖書は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けることができない、とは教えていません。罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私たちは、キリストなくしてはゆるしが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心を呼びさまさなければ 悔い改めることができないのです。」 キリストへの道


参加者が泣いていた。


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